伝統に新風を吹き込む。
九谷焼 四代・德田八十吉さん
Profile
- 四代・德田八十吉 九谷焼
- とくだやそきち
2010年、48歳で四代・德田八十吉を襲名。
留学したり、世界を旅したり、ニュースキャスターをしたり、のびのびと青春時代を過ごしていたのですが、20代半ば、旅先で出合った景徳鎮の壺に心揺さぶられ、自分の進む道はここにあると、九谷焼技術研修所で学びました。作家活動を始めて20年近く経った2007年、人間国宝(重要無形文化財「彩釉磁器」保持者)だった父が、初代から受け継ぐ釉薬の調合を教えると言い出したんです。 脳梗塞で入退院を繰り返していたので、おそらく死期を覚悟してのことだったでしょう。 その割合は一子相伝。先代からの職人さんたちもいらっしゃいますが、いまだに私しか知りません。2010年、48歳で四代・德田八十吉を襲名。 私は小さな頃から、かわいいお嫁さんになるのが夢でしたから、まさか父の跡を継ぐとは思ってもいませんでした。 最初は苦しかった。「三代とは作風を変えるべき」という周囲の声も多かったですし。
女性だからこそ、自分の色として「赤」の表現に挑戦。
父は、九谷焼の伝統的な色絵技法に満足することなく、緑、黄、紫、紺青、赤の「九谷五彩」のうち、鉄釉の赤を除いた4色から微妙なグラデーションを編み出し、色のみの表現による彩釉磁器「耀彩」を成功させ、九谷焼の新しい世界を切り拓いた人物です。それなのに、なぜ赤を除いたのでしょうか。 九谷の赤を出す和絵具はガラス質を含まないため、何度も試験をしていましたが、どうしても透明感が出なかったからなんです。 四代となってから、赤ちゃんのお尻とかお母さんの胸のような丸みを帯びた柔らかい形を出すようになりました。父から受け継いだ「赤」の研究も続け、赤ちゃんの赤、勝負の赤、血の赤、そんな「赤」を、女性だからこそ、自分の色として表現できるようになっていったのです。
平安時代の色のかさねを参考に、グラデーションを「育てる」。
仕事場にはいつも、吉岡幸雄さんの『王朝のかさね色事典』はじめ、色の本が何冊か置いてあります。 平安時代の色のかさねは、グラデーションの参考にしています。 実は、グラデーションを「育てる」のはほんとうに大変なんです。何度も繰り返し、高温の窯に入れては出して色を塗り、また窯へ。 形をつくるのは短時間かもしれないですが、そのあとがとんでもなく手間がかかるんです。
延べ1年間の闘病生活を経て、作風にも大きな変化。
四代・德田八十吉襲名後は、作品が大英博物館に収蔵され、また、ニューヨークで個展が開かれるなど、順風満帆でした。仕事が大好きですし、お酒も大好き。夢中で仕事してはお酒で癒やされる。そんな日々を送っていました。ところが、2019年にがんが見つかり、続いて、誤嚥性肺炎を患い、延べ1年間、闘病生活が続きました。 術後、ICUから一般病棟に移るときに見えた一筋の光を希望の光として表現した「紅の扉」など、人生観が変わっただけでなく、作風にも大きな変化が生まれました。 病のみならず、コロナや地震、災害などに目を向けて、様々な思いというか、祈るような気持ちを作品に込めるようになりました。
常に前向き、常に挑戦。 より力強く、より美しい作品を目指す。
48歳で襲名して10年近く。 閉経したときはすごくショックでした。 初めての孤独感に陥り、深く落ち込みました。 でも同時に、自分に克つということも覚えました。 60歳になったとき、もう、これからは好きなことをして楽しく毎日を過ごそうと覚悟が決まって、楽になりました。 そして、震災。東日本大震災のときも、1月1日の能登半島地震のときもそうでしたが、自分を強く支えてくれる何か力強いものが込み上がってくるんです。 病気、震災、四苦八苦を受け入れることで、強くなれる気がしています。 いま、取り組んでいる新しいシリーズは「つや消しの赤」。色のかさねが醸し出す幽玄な世界です。 豊かな心象風景が映し出される作品と自負しています。 還暦で生まれ変わって3年。 まだまだ、生まれたての赤ちゃんです。 これからも一生勉強、一生青春を続けていきたいと思っています。
德田八十吉さん、スキンケアどうしてます?
最後に、吉村さんのスキンケアについて聞いてみました。 肌のお手入れもほとんどしないというのに、白く、きめ細やかな肌の八十吉さん。 美白※にはとても興味があるので、「サクラエ」ビギナーとして、スタッフともども、お手入れ頑張ります、とのこと。
取材日: 2024年4月12日